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楽になろうっと。そして、自由に。

 

実は、2015年9月以降、私はさんざんな日々を送っていました。過ぎたことなので、

改めて振り返るつもりはないのですが、

人生には青天の霹靂という(あまり歓迎したくない意味で)ものが本当にあるんですね。

 

メンタル的にもからだ的にもそダメージを引きずったまま突入した2016年。

 

クリスマスイブに起こった新たなダメージがとどめを刺し、かけら位残っていたやる気も底をつきました。

 

そのおかげが、31日から今日まで、解決していない問題のことを思い出し夜中に目が覚めるという最悪の睡眠状況でお正月を過ごしながらも、お正月の買い出しをし、年越しそばも用意し、一日3回の食事をちゃんとつくり、1日10㎞くらいを歩き、「生活する」ということをしていたら、なんとなく落ち着いてきました。

 

今年は50歳になります。

 

今まで、本当に今まで、頭でっかちの分析癖が優位にたった人生で、そこから抜け出したいともがき続けるも、もがけばもがくほどその罠にはまり、疲れ切ってしまってます。「こうじゃなきゃいけない、あれもできなきゃいけない、どうして私はできないんだろう」と、自分を責め続けていただけなんですけどね。しかも、それが分かっていながら、それを止められないという負のループに落ち込んでいたんですよ。

 

その癖はすぐには治らないでしょうが、でも、なんとな〜く、そこから抜け出られそうな気がしています。なぜでしょう? って、やっぱり、そうやってずーっと自分と向き合うことをしてきたからなんじゃないかと思う次第です。何年もやってます。

 

自分は何者なのか、自分は何をしたいのかって、ね。でも、答えは来ないです。答えが来ないことが分かったんです。求めても、考えても、答えは来ないんです。どうしてうまくいかないの? どうして私はこんなにダメなの?と思っているうちは、うまくいかないんです。なぜならば、うまくいかない、私はダメなの、を前提としているから、そういう状態にしかならないんですよね。それがやっと分かってきた感じです。すごそうな人たちを横目に、どうして私はあーいう風になれないんだろう?と、自分と他の人を上下で位置づけてるんだから(もちろん、自分が下、ね。)もうどうしようもないですよね。

 

3年ちょっと前に会社を辞めた時、会社員を辞めれば自分の可能性が開けて、毎日楽しく過ごせて、楽になるよー、と思っていたけど、そこからの3年間が苦しかった。なぜならば、会社員でいる間は、会社に行けばやること山積みでそれをこなせば何かの結果が出たり、お給料という形で成果が分かったり、とにかく、日々何かを成し遂げている気に簡単になれたんですよね。とにかく、忙しいし、自分と向き合っているようで実はそんなこともなく、日々漫然と過ごしていたし。

 

自分で仕事を始めたからではなくて、この3年間は自分と向き合う時間を意図的に作ったんです。

実際にそうしてみたら、どんどん自分の嫌なところが見えてきて、それが受け入れられなくて、

受け入れなきゃいけない、自分を愛せなきゃいけない、でも出来ない、と、どんどんと、「なきゃいけない。でも、ダメな自分にはどうしても出来ない、どうすりゃいいの〜?」の砂地獄にハマって行きました。サラっサラの砂なので、掴まるとこもないし、そりゃ猛スピードで落ちていきます。

本当に苦しいですよね、自分と向き合うのは。

その挙句、昨年は、離婚を言い渡され(結局、しないことになったのですが)、取引先が急に気が変わってオジャンになったり、1ヶ月も体調を崩し、他にも諸々諸々と挙げたらきりがないほどの「思い通りにいかない」ことに見舞われ、もうこれまでかと思いました。

 

まだ継続中の案件もありますが、そんなこんなを何とか乗り越えてきた(のかどうかは不明ですが)今、こうじゃなきゃいけない、これが出来なきゃ自分はダメ人間なんだ、という縛りを自分で課して出来ない自分を責めている自分に気づき、自分を苦しめているのは自分なんだ、ということに気づいたんですよ。やっと。やっとですよ、やっと。

 

去年の終わり、ちょっと実家に帰った時、近くを散歩した時、ふと、いつもの散歩コースではない方向に行こうと思いついたのでその通りにしたら、母の知り合いに声をかけられ挨拶をしたんですが、家に戻ってしばらくすると、その方がなかなか手に入らない焼酎を持ってきてくれて、私たちのおみやげにと頂いたんです。 そして昨日は、逗子まで海を見に行ったんですが、私の頭の片隅にある「裸足」をコンセプトにした何かをやりたいなと思っていると BAREFOOT CAFEなるものが目に入ったり、帰りにちょっと寄りたいなと思ったカフェに寄ってそのお店を出た途端に、知り合いにバッタリ。

 

頭でどうしよう、こうしようと考えることよりも、ふと思いつくことを無視せずにそれを行動に移すと何かが起こるみたいです。それも以前から分かっていたことなんですが、もっと分析的に受け止めていたんですよ、以前は。でも、この数日は、このふとした思い付きをそのまま自然に行動にしてみること、その結果、自分の感覚にひっかかるものを無視せず、素直に受け止め、自然と意識が向く、ことができている自分がいるんです。これかぁ、という感じ。

 

よく、自分のやりたいことだけをやりなさい、とか、ワクワクすることをやりなさい、とか言われるけど、そのやりたいこととか、ワクワクすることが全然分からなかったんですよ。そんなのどこにあるの―――っ? いつ見つかるの? どうやったら見つかるの? そして、ついに私は悟ります。

「そんなもんないんだ。」と。(悟る、なんてのもホントはないんですけどね。)

 

日々、その日、その時にやることをきちんとやって、楽しんでいる心に、ふと、自分の頭では到底想像すらできない「ギフト」がやって来るんです。それは期待するものでもないし、意図したり、想定したりするものではないんですよね。そして、そのギフトは、大抵、小さすぎて意識に引っかからなかったりするので、ついスルーしてしまうんです。でも、その小さなギフトに気づくのは、日々を、その時を、波のない静かな海のような気持ちでいる時なんです。その積み重ねがあって、時に、想像もしない大きなギフトがやってきます。

 

人生って、実は、すでに決まっているものなのかもしれないと思ったりします。人間には1秒先のことも予知する能力がないので、起こったことに一喜一憂してしまうけど、いろんな小さなギフトが日常には散りばめられていて、それに気づいて、それを選択して(選択するという行動を起こす)いけば、幸せになれるんじゃないかと思うんです。でも、ギフトって、必ずしも一見良さそうに見えることばかりじゃないんですよ。思いがけない病気になったり、良くないことに巻き込まれたり、意図しないことが自分の見に起こっても、それがギフトだったりするんです。

(良いとか悪いとかも、人が頭で判断していることにすぎないですからね。)

 

誰かや、何かや、世間の常識に強制されてやることなんて何一つないんだから、すべては、自分に必要なことを自分で創っている世界に住んでいる私たちは、うまくいかないように見えることがあっても、自分で自分を責めたり、レッテルを貼ったり、卑下したりする必要はもうないんです。

 

今年は、というか、今の私は、誰にどう思われるかという意識はなくなりました。今やっていることが違うのかもしれないし、大きな方向転換があるかもしれないし、制限は何もないんだから、自由に、心のおもむくままに生きていける気がします。

 

もし、この言葉のどこかが誰かの心に響いて、その人が少しでも楽になって、今この地球に生きていることを少しでも楽しむことができたらいいなぁ、と思いつつ。

 

みんな自由なんですよ。